小飛島
大飛島と小飛島からなる飛島。
飛島にインターンのはずが、ずっと大飛島に滞在してしまっていました。
今日初めて小飛島に上陸。
小飛島には飛島全体の神社があり、大飛島の方もお参りに来ます。
小飛島の人口は13人(インターン生調べ)。75歳以上の方々とお一人障害をもった20代の女性が住んでいらっしゃいます。
集落はひとつ。島の方々はみなさん仲良しで、市役所の守屋さんいわく“楽園”なのだそう。
小飛島の人の一日。
3~4時起床、神社へお参り
ご飯や畑仕事やお昼寝をして
16時になると集会所の横のベンチへどこからともなく住民は集まってきておしゃべり。
18時くらいから各々晩御飯。
就寝。
まさにのんびりとした老後の島暮らし。
島民みなさんが港のすぐそばに住んでいらっしゃって、大声で海岸の端と端で会話をしていらっしゃいました。一体感がすごい!
私たちもおしゃべりに混ぜてもらいました。飲み物を下さったり、虫にかまれる私たちに除虫グッズを下さったりと、島の人優しすぎです。
素敵な島です。
飛島小学校
小学校廊下
小学校入り口
海の見える校庭
平成23年に休校した小学校。
まだまだ新しくて、島にとっては大切な資源です。
ここを再開させたい、民宿として使いたい、お風呂場施設として利用したい。など、島内には様々な声があります。
海を臨む校庭!なんて贅沢!
天理教会長 嘉冶市さん
天理教教会
六島にある教会で会長をつとめておられる嘉冶市さん。嘉冶市さんのお子さんが飛島小学校最後の生徒でした。
お子さんが笠岡のほうの小学校に通うことになり、嘉冶市さん以外の家族全員、奥さんとお子さん二人は、本土へ引っ越しました。
今は飛島に一人暮らしです。
孤独や怒りもあったそうです。
私が、
「なぜご家族よりも宗教を優先させるのですか?」
と質問すると
「そんな軽い決断はできません。」
とのこと。
宗教の信仰が一般的ではない日本ですが、島では仏様を大事にしたり、毎年神社にお参りに行くなど、宗教行事が日常のなかに残っています。
昔、笠岡の本土から通う飛島小学校の先生から、
「島は本土よりも15~20年遅れています。」
といわれたことがあるそうですが、島には昔ながらの日本の生活スタイルが残っています。
私の世代というのは、グローバル化された生活しか知らない人が多いのではないでしょうか?今日は世界のどこに行っても大都市であればわりと同じような生活スタイル。
この島暮らしは、私に日本人としてのアイデンティティを強まらせる機会となっているようにも感じます。
玲子さん
↑デイサービス
まちのデイサービスで出会った
平成23年に休校した飛島の小学校で、給食のおばさんを30年間もやりました。
玲子さんとお話を始めると、早々に
「飛島はええとこじゃ。みなさんよくしてくれる。病気で救急だったときに、地域の方が夜中に港まで車で送ってくれたんよ。」
と話して下さいました。
「飛島のいいとこは人。」なのだそう。聞いてる私も心がほっこり。
昨日、実際に今飛島に住んでらっしゃる人の人数をインターン生で数えたところ…男性39人、女性46人、計85人でした。
(ブログのトップの“人口115人”というのは、住基による数字です。)
島の人は、島に住んでいる人みんなの住んでいる場所、名前を知っています。
島の全員の名前を言って下さいとお願いすると、みなさん
「○○集落は上から…○○さん○○さん…」
と名前を挙げてくださいます。
飛島は陸がちょっとした山になっていて、人々は平地でなく、山の麓の斜面に家を建てています。
そして家々を上から覚えているんですね。笑
誰かの家を聞いたときも、
「○○さんとこの通りの一番上の家よ。」
といった具合になります。
飛島ならでは。面白い!(^^)
恵美子さん
67歳の恵美子さん
島ではまだまだ若手です。
平成23年の休校まで、飛島の小学校で15年間給食を作っていました。給食の献立や食材はどうしていたのでしょうか?聞けばよかった~><
恵美子さんはまだ小学生の子供さんがいるときに旦那さんを亡くしました。
それからは女手ひとつで3人の子供を大学卒業までさせたそうです。
二人の上の兄たちに船を所有させ、自分が社長兼会計として切り盛りしてきました。海運業の社長さんです。とってもパワフル!
今は飛島で暮らしつつ、笠岡に海運の会計をしに行ったり、六島の給食のおばさんのピンチヒッターに行ったりしています。島の婦人会の副会長でもあります。
「じーっとしとくのは性に合わん。」とおっしゃる恵美子さん。素敵です。
そんな恵美子さんは若いとき、都会に出たくて、家出の準備までしたそうです。
しかし当時、ご両親の反対に合って、結局飛島で18才のときに親同士の取り決めで結婚しました。
当時は一人で島を出て、バイトで食べていく自信が無かったといいます。
私もそんなのようせんです。