飛島人!

瀬戸内海に浮かぶ岡山県飛島(ひしま)は人口115人、高齢化率78.3%! 過疎最前線からインターン生が発信する島の人の“生の声”

角一さん、満枝さん

 

角一さんと満枝さんはおしどり夫婦。この二人といるととても癒されるのです。

 

海運業を営まれていた角一さんは40台で仕事を辞めました。

なぜでしょう。

 

答えはPTAの会長を務めるため。

PTAの会長を15年やったその後、飛島の自治会長を15年務めました。

 

人呼んで“歩くボランティア”。

 

本人は「もう体力ねぇけぇ、歩けないボランティアじゃ。」

とふざけますが。笑

 

人望が厚く、家にはPTA教会や福祉教会からの表彰状がたくさんあります。

いつもにこにこ、めったに怒らないそうで、この人に頼まれたらみんな協力するのだろうなというかんじ。

 

奥さんは「いつも地域のために忙しくて家庭を顧みない夫だったけど、いつもついて行ったんじゃ。」といいます。

この奥さんがまた、可愛らしい方です。

 

昨日お二人を含めた島の人に飛島の資料館を見せてもらいました。

 

 

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島には昔砂州がありました.この砂州が島の名物のひとつだったのです。角一さんが小さいときは、潮がひいて砂州が出たときはみんなで歩いて砂州の先まで行って、そこから泳いで向かいの小飛島まで行ったそうです。

 

しかし今は防波堤で潮の流れが変わってしまったため、砂州の砂はなくなってしまいました。

 

きれいな砂州を見たかったなあ。

フミ子さんの旦那さんの最期

 

 

フミ子さんは、9月1日から私たちをお家に泊めて下さりお世話してくださっている人です。

 

今年の7月にフミ子さんの旦那さんは亡くなられました。

 

5月の末から体調の異変を訴え笠岡の本土の病院へ。

 

癌でした。体のいたるところに転移しており、回復が難しい状況でした。

 

自宅で最期を迎えたいと帰宅を望みましたが、島には医者がいません。葬儀屋や火葬場もありません。結局本土の病院でお亡くなりになりました。

 

高齢者が多い飛島では“死”についての話はあまり触れたくない話なのだそうです。だからフミ子さんも旦那さんの話をあまり島内で話せないそうです。

 

働き盛りの20~40代皆無の島。それもそのはず。

仕事がないのですから。(海運業なら島で出来る気もするけど…)

高齢者は自分の体のことに頭がまわります。それが当たり前です。高齢者も島を背負わざるを得ないこの状況。どうしろと…。

 

ちなみに島の50代は2人。60代は島では少ない若手で、80~90代の方が多くを占めます。

 

 

島に若い人が戻らない。自然と離れていく…。島は、自分の生まれ故郷は存続して欲しいけど…。

 

 

簡単じゃないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

島の人の生活

 

島に来て4日目。

4日間の滞在中、見聞きした島の人の生活をまとめてみました。

 

  おじいさん、おばあさんの年金生活。

  おばさん、おじさん(50台~70台)が地域の役割を担う

新聞配達、公民館の主事、郵便配達、デイサービス、ホームヘルパー、週2回のお弁当配布サービス(婦人会のみなさん)

 

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  海運業(船のオーナー)

船を所有して、その船の運営をする。大手の運送業(日清製鋼など)に登録する。

数ヶ月海に出て、島へは休みに戻ってくる。

(島でも出来る仕事だが、会社のCSR活動のしやすさ、信用の得やすさなどを理由に本土に事務所を構える場合が多いと聞いた。)

今の島には海運業を引退した人が多い。

海運業は動かすお金の単位が大きく、船購入のため借金が多かったり、お金持ちになっていたりする。飛島のお家は大変立派なお家が多い。

 

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昔島で使われていた海運業の事務所?in飛島

 

  船員

島の船所有者の元で船員になる人が多い。島内で船員と船のオーナーとでは収入格差があったそう。数ヶ月船の上の生活をしながら運搬業をする。10日ほど休みをとると、また海に出かけていく。

 

  漁師はいない(現在漁業組合の正組員は2人、少ない理由は昔から海運業のほうが栄えていたから)

 

  お盆やお正月には家族が大勢帰省して来る。孫を20人持っている人もいる。大体10人前後の孫がいる。

帰ってくる時期はお盆、年末、お祭り(海の日の7月第3月曜日入れた連休)。

 

 

飛島は昔は海運業で栄えた島でした。

この記事を書いている途中にフミ子さんが飛島に住んでいる家族全員の名前を記録したノートの存在を明かしてくれました!!

これは貴重すぎるデータ!!これをもとにみなさんのお話を伺いにいくぞ!

 

太田さん

 

 

島の新聞配達屋さん太田さん。

 

たまたま朝りょんりょんが北浦港でお会いして、太田さんの新聞配達についていくことに。

 

 

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地図の左が大飛島、右が小飛島。二つ合わせて飛島。大飛島の上の方の港が北浦港です。

 

まずは一恵さんをのせて公民館へ。一恵さんは公民館にほぼ毎日午前中に通って番をして下さっているらしいです。

一恵さんは小学校跡でのデイサービスも担当しています。

このへん、一恵さんに直接お話が聞けたらな…。

 

その後は、旧中学校跡地へ出向く。(写真とるの忘れた~><)

昭和32年に北浦港の海沿いに移転するまで使われていました。

 

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この資料はわざわざ後から太田さんが持ってきて下さいました!優しい!!><

 

当時太田さんの同級生は15人、一個上は8人、その一個上は16人。

小学生80人、中学生40人。

それが今から60年くらいまえ。当時は将来飛島に子供がいなくなるなんて考えられなかったそうです。

 

高校と就職は広島の福山市で、電気機器の商社で定年を迎えてからは飛島に戻ってきたそう。戻ってくるときは新しく家を建てたとか。

 

中国の北京と上海にもいったことがあるそうで、8月に上海に行っていた私は親近感を持ちました。

 

資料を持ってきてくれたときに「私の話やこつまらんですから」と謙遜される、やさしい太田さん。素敵でした。

 

また太田さんのおうちにお邪魔します。

 

 

幸子さん

幸子さん

 

もうすぐ78歳になろうかとする幸子さん。

読み方はさちこさんです。ゆきことも読めますね。私たち姉妹がゆきことさちこなのでなんだか親近感。

 

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幸子さんは島生まれ島育ち。生粋の飛島人です。

訛りも強くて、東京出身のりょんりょんは聞き取りに苦戦していました。

 

「なぜ島を出なかったのですか?」と聞くと、「早くに小飛島の方からお婿さんをもろうたけえ、出る暇もねかった。」そうです。

 

飛島の昔話。

 

高度経済成長の波が島にもやってきました。

 

昭和42年12月 電気

昭和55年 水道

昭和48~59年建設 はちまき道路(島の集落同士をつなげる道路)

 

【井戸の話】

水道が通る前の水源は井戸でした。

 

 

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今は使われていない幸子さん家の井戸

 

4,5軒に1軒は井戸持ちの家。「井戸を持っているお家なら嫁いでもいいかな」ということばが出るほど井戸は大事。洗濯するにも炊事するにも掃除するにも井戸は要りますから。

 

【もらい風呂の話】

水をためて、炊いてお風呂に入ります。順番に入るのですが、流れていく水は垢とともに再度溜め、次入る人に再利用。どんどん垢はたまり、最後の人はどろどろの水。それでもありがたかったらしいです。ご近所さんのお風呂をもらうのがもらい風呂。これは、借りる方はもちろんお風呂にありつけて嬉しいし、貸す方ものちのちに肥料となる垢がたくさんとれてうれしいという、win-winな関係だったらしい。このもらい風呂が昔の島の交流の場だったそうです。

 

【うどんのルーツ】

昭和10年台まで島では小麦がとれたそうです。それが今のうどんを振舞う風習のルーツ。島ではチラシ寿司みたいなポジションでうどんが振舞われるのです。

ただ、島の小麦のうどんは黒くて、当時の子供には不評だったそう。笑

 

【島の不便さ】

はあまり感じないそうです。

「病院と散髪がちょっと不便じゃけえど、別に急ぎの用でもねぇし。」

昔に比べたら楽。

 

幸子さんは

人がいなくなって島がなくなってもそれはそれでしょうがない

といいます。

 

「しょうがない。」のでしょうか…。

フミ子さん

 

 

今日から金曜までフミ子さんという方のお家にお世話になることになりました。

土曜からは、島の空き家でインターン生4人でのシェアハウスが始まります><

シェアハウス…響きかっこよくないですか?笑

 

 

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これは今日の晩御飯です~。

えびのかき揚げ、かぼちゃのてんぷら、かぼちゃとひき肉の煮物、サラダ!

フミ子さんが腕をふるってくれました><

私とりょんりょん(一緒にフミ子さんのお家にお世話になるインターン生)も、ない女子力を振り絞ってお手伝いしましたよ。

おいしかったです~。しあわせ。

 

フミ子さんは島のホームヘルパーさん。

 

 

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この島にはホームヘルパーは3人で、交代でお年寄りのお家に伺います。

フミ子さんは週1~2回お掃除やお手伝いに行くそうです。

 

現在この島でホームヘルパーのサービスを利用している人は2人。

高齢化の進んだ島なのに少ないと思いますよね?

なぜ少ないのかというと……高齢化が進行して自活できなくなると、皆島外に出て、家族のところや施設に行くからだそう。

一生を島で生きてきて、最後の最後に島を出ることになる人が多いのですね。

 

ちなみに島でのお葬式は昔の慣習がまだ続いています。四十九日までの供養や七日ごとの法要も省略されることはないらしいです。

 

フミ子さんはもともと島外の方で、53歳まで20数年間東京で働かれていたそうです。出身も四国なのだそう。

 

今のご主人と結婚されて島に引っ越してきたそうです。それが二十数年前です。

 

島の存続には、やはりある程度の人口の流入が必要です。

フミ子さんのように移住してきて島に居ついている人の意見を聞くことは、島の存続に重要であると言えそうです。

 

「瀬戸内海の波が打ち寄せる音が移住当初はうるさくて眠れなかった。でも、だんだんとその音が自分を受け入れてくれる島の音のように聞こえてきだした。」

 

フミ子さんがこの地を好きな理由です。

 

守屋さん

事前研修を行い、ホテルで一泊してから、明日飛島へ向かいます!

 

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今日いる場所はまだ陸ですね。

写真のように、笠岡にはいくつかの島があります。笠岡諸島と呼ぶそうです。

高島、白石島、北木島、真鍋島、大飛島、小飛島、六島

今回私がお邪魔するのは赤文字の大飛島と小飛島

 

今日は笠岡市役所で守屋さんのお話をお聞きしました。

守屋さんとは?

・十数年笠岡諸島の活性化に携わってきた

笠岡市の観光課の職員さん

・島の住民主体の組織などの理事さん

・島の住民ではなく陸の方にお住まい

 

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(今日のお食事 左:守屋さん 右:エリアイノベーション藤井さん)

 

たくさんお話を聞いたので、全部話したい!全部伝えたい!

詳しく伝えたいのですが、長くなります><

なんてったって、お話は22時までの予定が24時までに延びたのですから。

 

とにかく、たくさんの試みをして、たくさんの経験をされてきた方です。

今その経験から感じていることは

・小さくて地道な活動が大事

・住民主体でないと活動は続いていかない

・自分ひとりでやるには限界がある、協力を得ることが大事

 

詳しいエピソードなど、小分けに記事にしたいと思います!

後述する数々の経験を経て、守屋さんは今、こんな風に感じているそうです。